2009年9月19日、広島二中の在校中に入市被爆し、戦後中国新聞記者として原爆報道に携わられた浅野温生さんのお話を伺います。浅野さんのプロフィールを紹介します。
1931年生まれ。1944年春、県立広島二中に入学。2年生だった20年8月6日、クラスメートは、爆心地か1.8kmの東練兵場(現・新幹線広島駅北口)で作業中に被爆。本人は、欠席していて直接被爆を免れる。
1954年、中国新聞社に入社。編集局社会部記者として、主に警察・司法関係の取材を担当。戦後の冤罪事件として有名な「八海事件」、1965年度菊池寛賞を受賞した「暴力追放キャンペーン」の取材などを担当。「原爆・平和報道」の関係では、1962年8月、特別取材班のチーフとして「ヒロシマの証言」の連載企画、1965年度新聞協会賞を受賞した「ヒロシマ二十年」では、6人の特別取材チームのひとりとして、三部作のうちヒバクシャのナマの声をまとめた“世界にこの声を”の連載記事を担当した。現在、中国新聞社顧問。